P.198 (坪内逍遥の「国語読本」を例 にとり、戦前の<勇気ある文筆活動>を紹介後)
しかし、こうしたものは明治末までに完了した教育の標準化により、すべて残さず
姿を消してしまうことになる。その結果として現れたのは、一つには
一つの国が自分達の倫理規範が正しいと信じて疑わない若者たちによって
運営されることになったことだ。
不幸にもこうした規範で武装化した彼らは、アジアや他の太平洋諸国に侵攻し、
身の毛もよだつ残酷極まるレイシストの戦争を開始した。そしてもう一つの結果として
数百万人もの日本人の命が奪われ、日本の多くの都市が瓦礫の山に変わるという、全く
悲惨な状況がもたらされた。
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今、日本人の何割の人が、この事実を知り、考えているのでしょう?
私の身近に、「そんな自虐的な考えはやめよう! 日本人は優秀な民族なのだ!」と
声を荒げている勢力が居ます。
そしてパルバース氏が心配する、以下のような状況が未だに……どころか
ますます蔓延している実態が私の憂鬱であり、仕事意欲に繋がっています。
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P.199 現在の日本の教育システムには、読み書きの力や計算力を伸ばすなど、
素晴らしい面がたくさんある。こどもたちはさらに「人の気持ちを考えなさい」とか、
「自分勝手はいけません」などとも教えられる。
厳しい試験制度を伴った教科書統一により、文部省は
「国民の高い知的水準の維持」、および
「与えられた仕事はなんであろうと勤勉にこなす若い日本人の育成」を可能なものと
した。確かにこれは、前の世代が残した瓦礫の山をなんとか片付け、そこから
日本という国をもう一度作り直すために必要不可欠な教育哲学であった。
しかし、二十一世紀に入ってもこれが日本にとって
正しい哲学であり続けるだろうか? ぼくはそうは思わない。
(中略)
子供たちが自己表現を学べる場が、
「なぜ自分は努力するのだろう?」という疑問に
自分自身で答えを出せる公の場所が絶対に必要だ。
日本の子供たちは今日に至るまで、そうした質問をぶつけられることはなかった。
(中略)
P.201 ぼくはぼくの子供たちが集団生活に慣れてくれればいいと思う。
そして優しくて思いやりのある上品な人間になって欲しいし、日本人の非常に高い
読み書きの水準から何かを学び取って欲しい。
しかし、子供たちが学校を卒業した後で、
個人的なことや独創的なことは何一つ言えず、
かつその子の天賦の才能までかき消されていたとしたら、
将来、子供たちは社会にとってどんな良いことをもたらすと言うのだろう?