第1章「2025年問題とは何か」から始まり、
第12章まで、自分の最期をデザインしておくことの重要性が説かれています。
「2025年問題」とは、いわゆる団塊世代が、後期高齢者といわれる75歳を
一斉に超え、廊下に伴うがんや、慢性疾患、認知症、老衰などで
死に直面する人が急増することに対し、
p.15 現状のままの病院のベッド数では、
急増する臨死状態の患者を受け容れることには限界があり、
(中略)「死に場所難民」の出現が予想される
つまり、「あまりにも数が多すぎて、過去になかった異常な事態が起こり得る」
ということです。
自分がどのように生き、最期を何処で迎えるかを考えておくことは、
別に団塊世代でなくても、誰にでも必要なことと思いますが、
これからは、考え抜いて準備していても、上手くいかないかも?ということ?
私は団塊ネズミ歳で、二回り上の1924年生まれの母を3年前に見送りました。
その時に「人はどのように逝くのが、最も幸せなのか?」を考え抜き、
母とも相談し、周到に用意し、様々な努力をしいましたが、
結果は「理想的」とは言い難い、残念な「母の最期」でした。
当時も現在も、「人は住み慣れた自宅で、家族に見守られて逝くのが幸せ」
と、言われていますが、色々な要因で、それが叶いません。
その原因(=駄目要因)の一つは、排泄問題です。
90歳を過ぎて、気丈に(気楽に)暮らしていても、下痢をしたり、
いつの間にか失禁するようになったりして、シモの始末に不安を感じ始めます。
母の場合は、高齢者マンションに住んでいて、たまの緊急事態には
管理室から担当者の方が介助に来てくださったのですが、
頻繁になったら甘えてはいられません。
母より8歳上の父を看取ったときも、最大の問題は排泄介助でした。
完全にオムツになってしまっても、それはそれで大変なのですが、
そうなる前に、
「便意や尿意を感じたら、なんとか、自分で用を足したい」
と思うのが人間のサガです。でも、元気な時のようにサッサと
移動できないし、便座に座るのも、座ってからも時間がかかるのです。
「ちょっと、トイレに行きたいんだ~」と言われてから、
20~30分も介助に手を取られ、それが夜中に何回も起こされるのでは、
どんなに健康な家族でも参ってしまいます。
母は父を看取ったとき、その苦しみを散々味わったので、
娘達に同じ思いをさせないように、配慮してくれたのでしょう。
自宅マンションで、訪問ヘルパーさんが来るまで汚れたオムツで
我慢するよりは、常に介助をお願いできる「サービス付き高齢者住宅」を
選んでくれました。
ところが、今の制度では、このサ高住(=さこうじゅう)という施設は、
建前的には
<自宅で暮らす高齢者が、リハビリの目的を持って一時的に住まう>場所なので、
リハビリの運動を頑張らねばなりません。
母にとっては、このリハビリの時間がとても辛かったようです。
最終的には、「もうリハビリは無理なようだから、看取りに入りましょう」
ということになり、3ケ月後、穏やかに眠るように亡くなりました。
施設の方々は、褥瘡ができないよう、夜中も含めて2~3時間毎に
おむつ交換・体位交換をしてくださり、優しく接していただいて、
頭が下がります。
でも、、、
自分なら、、、、
寝つくのは、せいぜい1~3週間にしたい!です。
そのためには、日々の筋トレ・運動が必要です。
私は最近、食事毎の筋トレをしています。
①朝食前は、ラジオ体操に行き、第一&第二のハード版(自分で考案)、
②昼食前は、11時半に浴室に行き、浴槽の縁に座ってから
お尻を前にずらして下げていく<二の腕運動>(10回30秒)、
立ち上がり、緩めのスロースクワット(10回1分)
③夕食前も②と同じ筋トレ
もちろん寝る前の自力整体も欠かしません。
これが必要十分なのか、足りないのか?最期の時がくるまで分かりません。
でも、日々が快適で、ぐっすり眠れて幸福感があるので、続けています。