P.114~ 障害者もボランティアも決してやさしかったり、純粋なだけの
人間集団なのではなく、ときには危ういドロドロとした、
ひどく微妙な人間関係の力学の上に成り立つ世界なのだ。
そして、ボランティアが人を成長させるとしたら、
それはなにも「感動的」な体験があるからではなく、
きわめて人間的な本質をあらわにし、多かれ少なかれ、
それを目撃し、そこに触れざるをえない世界だからだろう。
逆にいえば、それによって成長する人間もいれば、傷つく人間もいる。
「美談」の反対も、同じ分だけゴロゴロ存在するのかもしれない。
して当然なのだ。
何故いま、この本を読む気になったのか?
それは、超介護社会の足音が身近に迫る現代にあって、
介護が必要な高齢者(=重度障害者も多分同じ?)が遠慮することなく、
快適に生活できる環境を、社会がどうやって支えていくのか?
それはボランティアに頼るべきモノなのだろうか?
それが、とっても気になるからです。
この本に登場する主人公は、<筋ジス患者でありながら、自宅での生活>を求めました。
その望みをかなえる法律が整備され、周到な用意をして踏み出したはずなのに、
人手不足などで、患者本人が「ボランティアを集めて教育しなければならない」状態です。
いったい、どうなってんの?と叫びたくなります。
その疑問は、彼がボランティアの女性の一人と結婚したとたん、
「妻がいるんなら、まず彼女が色々やって、どうしても大変になったら、
ヒトを呼べばイイじゃん!」という事実に至って、氷解しました。
私が知る限り、日本では「障がい者も高齢者も、その家族だけの問題」で、
「家族がボロボロになって、倒れた時にだけ、助けてあげるよ」というイメージです。
私は、これが「間違いの大元」と思うし、絶対に変えねばならない!と思っています。
何故なら、現在元気な私も夫も、いつかは多かれ少なかれ要介護になるのですが、
どちらか<元気な方>がボロボロになって倒れて、美談の中で終わらせられそうだから。
我が家の場合は息子や孫がいますが、家族である以上、
「家族なんだから!」という理由で、何某かを暗黙裡に要求されることでしょう。
事実、この本の中でも、
P.203 「奥さんがいるのに、なんでもっと夫を介助しないのか」と職員に苦情を言われる
(中略)そもそも「介助を家族だけに頼らない」という発想から
障害者の自立生活運動やケア付き住宅の建設運動は始まったのではなかったか。
障害から派生する介助は妻にさせるべきではなく、当然、
介助職員がすべきであるという意見を鹿野は持っていたが、
運営する側もそうした先進性を意識しなければ、物事はまったく先に進んでいかない。
しかし、妻や親がまず介助をすべきであり、他人(それが介助職員であれ)に
介助を頼むのはそれからだ、という日本の献身的な家族介助(護)の信仰を
打ち破るのは容易ではなかった。
P.207以降、スウェーデンの福祉制度が紹介されていて、素晴らしいと思いました。
全てを書き写すことは出来ないので、是非、この本なり、北欧の福祉制度の本を読んでください。
人間を大事にしない国ニッポン! これを許しているフツーの私たち……
私にできることは何なのか?を常に考えながら、シナリオ等に生かしていこうと思います。